​パニ子を世界のパニ子にする

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心ある赤の他人の助けが必要

 



 

 パニ子のパニック障害克服案内所のサイト製作を開始してから、ちょうど1ヶ月と7日経ったことをお知らせします。特にちょうどでも何でもなくてすみません。少しずつコンテンツが充実してきました。コツコツ進めます。


 はじめ、この『パニ子のパニック障害克服案内所』を作り始めた1ヶ月と7日前は、まだ何も存在していない状態でした。まだサイトとしての方針も何も決まっていませんでしたし、管理人であるワンモアタイムがパニック障害をほぼ克服した経験を体系的にまとめてコンテンツとして販売するための場所くらいにしか考えていませんでした。


 ですが、1ヵ月と7日経過し、自分の症状がまだ激烈だった頃、抗不安薬を手放して日常生活を送ることなど考えられなかった頃に欲しかった、何か、たとえば自分を認めてくれる居場所のようなものになりつつある気がしています。もしここがこれから1年くらいでそれなりに発展を遂げたとしたら、それなりに、なんというか、パニック障害を患ってしまった方や、ストレスに起因したうつ病を患ってしまった方、そのどちらの心理的負担も減らすことのできる、すべての人の居場所になることができるような気がしています。なんだか本当にそうなることを願えるようになってきました。いや最初から願ってはいましたけど、もしかしたら本当にできるんじゃないかなぁって思えるようになってきました。


 最近、ツイッターで知り合った方がいて、その方はわたしと同じ抗不安薬を8年間飲んでいた方なのですが、今は例によって例のごとく、ベンゾジアゼピン離脱症候群に苦しんでおられる毎日のようです。診断名はパニック障害ではなく、うつ病だったそうですが、不安に駆られる毎日を過ごされているようです。病気によって環境の変化も経験され、かなり落ち込んでおられました。病気というのは、自分自身も試されますし、周りの人間も試されるものです。その方は病気のせいでご家族を失ってしまいました。それが良かったのか悪かったのかは正直わたしにはわかりません。これから一緒に居たとしても支えてくれなかった人かもしれないですし、やっぱり病気によって人は本当の人間性を試されてしまうのだなと強く感じました。自分自身も周りを遠ざけてしまいますし、病気になった身内を億劫に思ったりしてしまうこともあるでしょう。でもそれは誰だってそうだと思います。身内だからこそ、本当は一緒にいたいけど、将来のことを考えると、残酷な判断をせざるを得ない瞬間が来てしまう。わたしもずっと病気になってからは実家の祖父母にゴミ扱いされてきているのでよくわかります。やっぱり、どれだけ言葉で説明しても届かないことはあるのだと、わたしは痛いほど知っています。これを読んでくださっている方の中にもそういう経験をされてきた方はたくさんいることでしょう。やっぱり人は相手の痛みや苦しみを理解できないのです。


 その方は現在、一番の悩みとしては、首のうしろのコリが取れないとのことでした。わたしの持っている知識をほとんどすべて教えました。正直それが効くかはわかりませんが、それだけですごく助かったと言ってもらえました。これまで3つのクリニックを渡り歩いてきて、どの医師にも感じている苦しみや痛みについて解ってもらえなかったそうです。漫然とベンゾジアゼピンを8年間も投与されていたことを問い詰めると機嫌を悪くされたり、あなたは自分の性格が変わってしまったことを薬のせいにしていると言われたり、3つめで比較的親切な医師に巡り合っても、一気に断薬してみては? と言われたり、ああ、この人たちは本当の意味では自分の苦しみについて全然理解できていないんだと絶望してしまったそうです。


 わたしとしては、そこには多くの問題が絡んでいると思います。世の中には良い医師と良くない医師がいると思っているのですが、よく勉強している医師と、知識の更新が止まってしまっている医師だと思っています。前者は薬の作用機序などについてきちんと説明してくれて、こちらが説明を求めて答えられなかったときも機嫌を悪くしない医師のことです。


 医師である限り、すべての医師に患者の痛みや苦しみを取り除いてあげているという感覚はあると思います。ですが、良くない医師にはやはり患者の長期的な予後について知識がなかったり、関心がなかったりするようです。良い医師は最低限度の薬しか出さない傾向にあったりするようです。薬の副作用を別の薬で抑えるという多剤処方を行っている医師は現実問題として存在していましたし、やはり実際の感覚として、自分が薬に対する依存感覚や離脱の苦しみを体験していないのでそういうことになってしまうのかなと思ってしまいます。患者に出す薬をまず自分で服用してみるという仏様のような医師も存在している一方で、安易な方法を続けてしまっている医師が存在しているのも悲しいことに事実なのだと思います、医療はビジネスでもありますから、単純にそのほうが儲かるからという事情もあるかもしれません。薬の利権などの絡みもあるでしょうし、医師会の方針というのもあるでしょう。あるいは本当に心から患者のホリスティックな健康を願い、救おうとしている医師でも、大学で教えられた通りに治療を行うことで、薬だけに依存させてしまっている医師もいるでしょう。ですが、患者から見ればどの医師も、やはり医師なのです。自身が弱っているときには神様のように思えてしまうのが医師なのだと思いますし、処方された薬を見て、これを飲んでいれば治るんだと誰だって思ってしまいますし、何の注意喚起もなければ、8年間も漫然と飲み続けてしまう方だっているわけです。その方は最近になって自分の体がおかしくなっていることに気づき、インターネットでベンゾジアゼピンの長期服用による危険性について気づき、絶望というか、怒りにも似た感情を抱いたそうです。ですが、離脱の影響でその感情を行動に移すやる気さえ起こらないような状態のようです。このどうしようもない感覚、これから自分がどうなってしまうのか不安で堪らない感覚は実際に体験したことのある人にしかわからないでしょう。言葉だけで説明している以上に、その感覚は、生きているということを根底から狂わせてしまうものです。冷静な判断力を失わせてしまうんです。その方はわたしと知り合って、事業を売却するすんでのところで踏みとどまったそうです。


 日本という国に住んでいて、日本という国の良いところに気づくことはあまり多くないのかもしれません。すべてのことにおいてそうですが、人間はマイナスな部分、ネガティブな感情に対して機敏になります。良い記憶よりも、悪い記憶のほうが鮮明にいつまでも残っているように。日本という国は良い国です。ですが、昔から、少し長期的なビジョンを持ちにくい国のようです。そして忘れっぽい。置かれた状況によって様変わりします。ある意味で柔軟です。ですがある意味では、自分たちの力によって自分たちを変えることができない国民性であり、その総体である国と言えるのかもしれません。


 たしかに、ベンゾジアゼピンで今ここにある不安を取り除くことはできるのですが、明日はどうなっているかわかりません。諸外国がベンゾジアゼピンの危険性に気づき始めていた中、ずっとこれまで日本が続けてきてしまったことは、長期的なビジョンが無かったからと言えるのかもしれません。短期的に解決する手段を漫然と使っていていいことがないというのは、すべてのことにおいてそうだと思います。日本の経済が立ち直らないのも、鈍重な産業構造そのものにそれがあって、それを直さないまま金融緩和という短期的な解決策を何回行っても何も解決されないことと同じように、一時的に解決されたように見えても、またすぐに戻ってしまうことと同じように、それは根本的な原因にアクセスできていないからと断ずることができるのかもしれません。


 多くの医師はベンゾジアゼピンを処方しますが、これはいつかやめなくてはいけませんと説明します。それは患者も理解できるでしょう。ですが多くの場合は患者はそれに依存してしまいます。なぜならそれがないと症状を解決することができなくなってしまうからです。医師も患者が苦痛を訴え薬をまた欲しがれば出すしかありません。なぜ両者がこのループに陥ってしまうのか、わたしはそこに、ベンゾジアゼピン以外の解決オプションが存在していないことに問題があると思っています。


 はじめから最終手段を使ってしまうということは、症状を段階的に解決していくという意味において必ずしも正しい行いではないからです。わたしの経験から申し上げて、抗不安薬によって症状は一時的に消失しますが、抗不安薬によってしか、パニック障害やうつ病を治せないというわけではないです。もっとたくさんの選択肢が存在しています。これがもっと周知されるべきですし、治療オプションとして最初から提示されるべきだとわたしは思います。もっと根本的な原因を治療するという意味で、栄養を充足することの効用、長期的ビジョンで見た場合に無視できないその治療効果の高さ、あるいは症状を体全体のものとして体系的に見て、あらゆる可能性について、情報としてだけでもいいから提示するという体制が、患者がはじめて頼る場所であろう病院という機関に必要だとわたしは思うのです、保険の範囲内で実現するのは現実としては厳しいのかもしれませんが、情報としてだけでも提示が必要だと思うのです。なぜそれがないのか、不思議でならないのです。


 だからこそ、こういう場所が必要なのではないかなと思いました。身内にさえ、親しい友人にさえ解ってもらえなかったとき、人は絶望します。人は独りで生きていくものなのだと悟ると思います。しかしそれは正解です。人は最期は独りなのです。どれだけそれまでの過程が満たされていて、どれだけ豊かに家族や友人に恵まれてたとしても、人は最期は独りなのです。パニック発作を起こしている瞬間に、多くの人はそれを感じていると思います。今ここでわたしは死ぬんだなと、擬似的にそれを感じ続けていくうちに、わたしはもう独りでいたほうが楽だと思うようになってしまうと思います。だってどうせ誰も助けてくれないんですから、けど、本当にそうでしょうか? 同じ経験をした者同士だったら、本当の意味で助け合うことができるんではないかとわたしは思いました。同じ釜の飯を食った同士ではありませんが、なんというか、同じ地獄を味わった者同士、それがどこにも見えなくても、レントゲンに写らなくても、気のせいですと何回医者に言われても、自分達はその恐怖を感じていたということを信じ合えるだけで、自分というものをもう一度やり直そうと思えると思うんです。自分だけがおかしかったわけじゃなくて、嘘を吐いていたわけじゃないって。


 だからこそ、心ある赤の他人の存在が必要なのだと思いました。



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